調教師の角居勝彦の意向で、1996年のビワハイジ以来11年ぶりの牝馬ダービー出走を決める。
東京コース全勝のフサイチホウオーが1番人気だった。
ウオッカは前年の阪神JFを優勝したものの、桜花賞2着が評価を大きく落とし3番人気(倍率2桁)だった。
レース序盤から中盤にかけて、ウオッカは後方待機で自分の走りに徹した。
終盤は自慢の末脚でごぼう抜きをし、見事優勝を飾る。
なおこの時の
上り3ハロンは推定であるものの
33秒0を記録し、この記録は
ダービー史上最速であった。
*2
1937年のヒサトモ、1943年のクリフジに続き、史上3頭目の
ダービー制覇牝馬となった。
オークスは創設当初は秋開催だったために、ダービーとオークスの両方に出走する牝馬が多かった。
しかし、
1953年にオークスがダービーの前週に移動してからその数は激減。1953年まではダービーに出走した牝馬が112頭だったのに対し、1953年からウオッカ出走までは15頭しかいなかった。
実質的に
初のダービー牝馬と言っても過言ではない活躍ぶりだったのである。
父・タニノギムレットは2002年のダービー馬であり、史上5組目の
親子ダービー制覇(
父娘では唯一)を達成している。
騎手の四位洋文にとっても初のダービー制覇となった。あまりの嬉しさに、レース後のコメントでは「もう騎手を辞めてもいい」と発言した。
余談であるが、皇太子徳仁親王(当時)が台覧していたため、四位は入線後、馬上から脱帽し最敬礼を行った。
また、内閣総理大臣賞を授与するため安倍晋三内閣総理大臣(当時)も来場していた。